16. 幻との抱擁
そんな会話をしていると、まもなく車は鳥清の手前の角に着く。マスターの店には、まだ煌々と電気の明かりが点いている。店の手前で、森田のタクシーを降りた沢田とマドンナは、そこで森田と別れる。分かれ際に、車の窓から首を出して、森田がドスの利いた声で言う。
「ワシは、五条の吉川にいるからな。家に帰る時には、それから、もし何かあったらいかんから、吉川の華子ママに電話しなよ。ええか、マドンナ。それから、沢田はん。マドンナが、またマスターに絡まれんように、見張ってやって呉れや。たのむで」
マドンナも珍しく、しおらしく頷いて、森田を見送る。暫く、2人でそのテールランプを見い遣りながら、マドンナが小声で、喋りはじめる。
「森田と早く別れて、ここに来たかったのよ。そうしないと、また彼のタクシーに乗せられて、送られるから。家に入られると困るから、忘れ物をしたと、わざと言ったのよ。沢田さん、分かって呉れているの」
続けて、辺りを見回してそっと言う。
「でも、森田は嫉妬深いから、キットどこかで、私達のことを見張っているわ。私は、鳥清の店の中に入るわよ、いい。ついでだから、今、思い出した荷物も取ってくるわね」
沢田の、袖口を引っ張って言う。
「でもさあ、沢田さんチョット、一緒に店に入って呉れる。私1人だと、マスターが怖いもの。森田が言うように、また絡まれたら困るでしょ」
「分かりました」
小声でそう言って戸を開け、2人で再び店の中に入る。マスターは、まな板の上で、鶏肉を刻んで、明日の焼き鳥の下こしらえをしている。もも肉、背肉、手羽、肝臓、キモときれいに仕分けされ、乾パン位の大きさに切り揃えられている。もう一方のまな板の上には、獅子唐と切り揃えられた白ネギが整列して、並べられている。キチットした、マスターの性格だ。この商売の準備の大変さを、目の当たりにして、沢田は、表でなく裏側をこそ見るべきだと納得して、感心する。一番奥の、カウンター席には、男女の子供が2人座って食事をしている。聞いていた、マスターの子供に違いない。気の毒にも、店が終わった後の、遅い夕食のようだ。
マドンナが、2人に近寄って、声を掛ける。
「喜美江ちゃん、義男ちゃん。今晩わ、ですね。遅い食事で、ホント悪いわねえ」
「いいのよ、慣れているから。お父さんの仕事だから、仕方がないジャン」
元気のいい、素直な子供達だ。沢田も、その声を聞いて、どこか安心する。すると、マスターが、切りそろえた具を串に刺しながら、マドンナに質問する。
「おう、ところでどうやったんや。話し合いは、旨く行ったんかいなあ。アイツは、諦めよったか」
「その話は、また後からね。マスター、ちょっと2階に上がってもいい。忘れ物したのよ」
マドンナは、どことなくそわそわと落ち着きがない。言い出す先に、階段をもう登り始めている。
マスターの言葉が、後から追っかける。
「ああいいよ。ついでに、子供の寝床を作ってやって呉れないかなあ。忙しゅうて、手が回らないんじゃ。スマン、たのむわ」
「あら、いいわよ。お安いご用よ」
そう言って2階に上がったマドンナは、上でごそごそしている様だったが、暫くすると、例によって、紙袋を2袋も下げて降りてきた。いずれも、大きく膨らんでいる。
「なんじゃ、その荷物は、どないしたんじゃ」
「着替えと、洗濯物が一杯なのよ。持って帰るのを、スッカリ忘れていたのよ。ついでに、全部一纏めにして、持って帰るわ。ありがとう、マスター。じゃあね、もう帰るわ。沢田さんも出ましょ。タクシーを拾うまで送って呉れる。マスターお休みなさい。明日も、頑張ろうね。それじゃあね」
時間は、もう深夜の12時半を過ぎている。
外に出た2人は、押し黙ったまま寮とは反対方向に向かって歩いている。マドンナは、荷物を両手に下げている。タクシーを拾うつもりの、両手に荷物を持っているマドンナを、そのままにしては置けないので、沢田は、荷物の1つを分担して、マドンナの行く方向のままに後を付いている。鳥清が見えなくなった角に来たとき、マドンナは、違う筋から、今度は沢田の寮の方に踵を返す。
沢田は、どこに連れて行かれるのか不安に思う。その気持ちが伝わったのか、暗闇に来たときに、荷物を歩道に下ろして、ごく自然にマドンナが、沢田に抱きついてくる。そして、沢田の目を見上げて、言う。その目は、潤んで瞳孔も開いている。
「沢田さん、タクシーの話は嘘なの。沢田さん、今抱いて欲しいの。今夜はねえ、あなたと一緒に寝たいの。ねえ、いいでしょ。沢田さん」
陰の中に入り、2人は暫くそのまま抱き合う。香水の臭いと共に、薄着の彼女の肢体のふくらみが肌で感じられる。沢田の鼻先にある彼女の髪からは、麝香のにおいがする。迷っていた沢田も、麝香に彼女のフェロモンを感じて、下の方から熱い物がこみ上げ、遂に決心する。沢田は、戸塚にいる妻のことなどは、最早、念頭にはなかったからだ。
「ほんとにいいんだね。じゃあ、今から僕の寮に帰ろう。ここで見られると変だから、腕を放して、別々に離れて帰ろ」
彼女も、抱きついていた腕を放して、肩を寄せて並んで歩く。
「真っ直ぐに、そのままに帰ったら、マスターに見つかるから、わざと遠回りしたのよ。
私の、気持ち、分かって呉れているの。沢田さん」
北側から寮の方に南下して、寮の方に向かっている。荷物の陰と2人の影が、短く手前の方に縮み弾んでいる。
裸の2人は、沢田の布団の上にいる。壁の向こう側にいる筈の、隣の竹内良子と男のことなど忘れて、お互いに貪り合う。窓の外から差し込んでくるネオンの明かりも、けだるい。時が、止まったかのように、2人は放心している。女が、沢田の手に自分の指を絡ませて言う。
「ううーん、沢田さんったら、にくらしい人。どうだった。私も久し振りだったから、生き返ったような気がするわ。ところで、今あー、何時かしらね」
「そーだなあ、ええっーと。もう午前2時を過ぎてるよ」
「じゃあさあ、もう一度抱いてほしいの。沢田さん。もっと、もっと深く飛んでいたいのよー。ねえー、沢田さんったらー。戸塚の奥様も、浮気しているのでしょ。だったら、おあいこで、いいじゃないの」
その後の日々に、地獄が待っているとも知らずに、2人は我を忘れて抱き合う。沢田の左肩にうっすらと汗が滲む。
しかし、沢田は、車中での先程のマドンナの言葉を思い出す。これは非現実ではないのか、もしかして抱いているのは、幻なのではないだろうかと、ふと思う。
そして、来て欲しくもない朝がスグに来る。カーテンのない、東の窓から刺す朝日だから、とりわけ眩しい。網膜の底が、チクチクと痛い。
「あなた、起きたの。私、3年振りだったから、疲れちゃったわ。このまま、ここで寝ていてもいい」
女房気取りで、低い地声でそう言う。
「ああ、いいよ。僕は、今日は学生時代の友人と会う約束があるから、もう起きて支度するからさあ」
そう言って、いつもとは遅い朝の支度をする。それを、横に寝て見ていた、マドンナがくぐもった声で聞く。
「あなた、この荷物だけれど、洗濯物というのは嘘なのよ。鳥清で使う必需品なの。だから、ついでだから、ここに置いていてもいい。今日からは、ここから鳥清に通うつもりなのよ。ねえ、いいでしょ」
「でも、卓也くんは、どうするの」
「ううん、いいの。夕方に、毎日私が通って見てあげるし、卓也が好きな森田も、面倒見ていて呉れているのよ。だから、ここに居ても問題ないの。ノープロブレムよ」
荷物と一緒に引っ越しをしてきた、と言う訳だ。そして、沢田は、横浜に妻を残したままにして、いよいよ、マドンナとの同棲生活の真似事を始める。このことがあってからというもの、沢田は薬が無くても、夜はグッスリと寝られるようになり、また、落ち着きと自信をさえ、取り戻していくのである。
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