14.一緒の出勤
今日は金曜日の夜だ。丁度夜の8時を回っていたが、示し合わせた通りに、沢田啓介と吉田英子は連れだって、店に入る。一昨日の夜のこともあるから、マスターに反省をさせる意味合いもあり、またマドンナである自分が店にいないと、どんな忙しい目に遭うかをマスターにも解らせる為に、今日は遅めに出勤したという、マドンナの策略だ。店の中は、半袖ワイシャツのサラリーマンや、Tシャツや、カラーのランニング・シャツを着た若者の客で、大変混雑している。席の八割方が埋まっている。7月中旬の盛夏だから、クーラーが利かせてあるが、それでも店内は、ムッとする蒸し暑さだ。
「マドンナ、遅いやないか。忙しゅうて、忙しゅうて、大変やったんやで。たのむわ、一昨日の夜のことは、大変に申し訳なかった、もう反省したからな。早う着替えて、ここに来て、手伝うてえなあ」
マドンナと一緒に入ってきた沢田には目もくれずに、マスターは彼女を急がせる。吉田英子は何も言わずに、二階に上がり、マドンナの服装に着替えて降りてくる。今日は、白のミニスカートにオレンジ色のサマーセーターだ。着替えの服が2階に何着も用意してあるらしい。昨夜はピンクだったが、今日のオレンジ色も華やいで、店も明るくなった感じだ。
「さてと、じゃあマスター、頑張ろうね。これを、奥の三番テーブルに運べばいいのね。はい、解りました」
いつもの、快活なマドンナの姿が、「鳥清」の店内に蘇っている。店も華やいでいる。
沢田は、一人なので、カウンター席の真ん中付近の、空いている席に陣取る。隣は、サラリーマンらしい年輩の2人連れだ。沢田は、おもむろに店内を見回す。カウンター席の二つ先の隣に、東邦電機の製造部の技術課長をしている、顔だけは知っている男と目が合い、ドキッとする。名前は、知らない男だ。視線が、スルドイ。
『しまった、あの男は技術の男で、社長室で時々見かける顔だ。マドンナと一緒に店に入ったのを、見られてしまったぞ。大変に、マズイ。社長の耳に入るかも知れないぞ。しかし、今更もうどうしようもないか。ま、堂々として、暫く様子を見てみよう』と、沢田は不安に駆られるが、寧ろ開き直る。
「マドンナさん、僕の方も、ビールと塩焼きをたのみますよ」
今夜は多忙なので、彼女も昨夜のように、沢田の前のカウンター・テーブルを拭く余裕がない。遠くの方で、焼き鳥を運びながら返事する。
「はあーい。カウンターの6番さんに、瓶ビール一本と、塩焼き一丁。マスターお願いね」
「あいよ、6番カウンターOK」
沢田に配慮してか、名前を呼ばずに、席番号で注文を取る。沢田は、却って有り難く思う。普段の店に、すっかり戻っている。まるで映画を見ているように、焼鳥屋の情景のコマが廻っている。1人2人が帰ると、今度は2、3人が入ってくる。それらの、様子をボーッと見ながら、コップのビールを飲んでいた沢田は、マドンナがした先程の話のことを考えていた。
『マスターの方は、マドンナをもう諦めたようだが、タクシー運転手の森田の方は、仲々に、しつこそうな男だから、マドンナを簡単には諦めないだろうなあ。それよりも、マドンナは口裏合わせだけで良いとは言っているが、ホントにそれだけで良いのだろうか。僕に関心を持っていることは、間違いがない。昨夜のことを考えると、積極的なアプローチとしか取れない。妻子の有る身だ。ここは、慎重に対処しないといけないぞ』
『今日は、部下の憲さん達は、ここに来ないの筈だが、間違いはないだろうなあ。彼等を誘わずに、先に退社して、マドンナの指定する場所に行ったから、まず来ない筈だと思うが。だけど、何という名前の奴か、あの技術の男は気になるぞ。マドンナと2人連れの処を見られたからなあ。一度、憲さんに、奴の名前を聞いて、どういう男か調べておく必要があるなあ』
そうこう、考えていると、その問題の男が、立ち上がって、しかも2人連れでレジの方に向かっている。おアイソらしい。時計を見ると、もう9時半を過ぎている。すれ違いざまに沢田の方を目を据えて、ジロリと見て、その2人連れは、勘定をして店を出て行った。
入れ違いに、タクシー運転手の森田が入ってくる。それが合図であるかのように、店の客がバタバタと帰り始める。先程の混雑は嘘のように、まるで水が引くように客が居なくなる。そして、遂に沢田と、カウンター席の一番奥にいる眼鏡を掛けた、見知らぬ男と、タクシー運転手の森田の3人だけになってしまう。森田は、奥のその男の横に座り、どうもと言って挨拶をしている。ここで、待ち合わせをしていたらしい。
「森田はん。お久しぶりです。協会で、いつもお世話になっておりまして、すんまへん」
「いえ、こちらこそ。お呼びだてして、どうもご苦労様です。副理事長には、わざわざお越し頂いて、誠に恐縮です」
会話から、沢田は、その男が、どうやら、森田のやっているタクシー協会の副理事長らしい男だと理解する。会話が続いている。沢田の、4つ隣の席だから、話が丸聞こえだ。
「木村はんなあ。私は、もうこの商売を辞めて、福岡に帰ろうと決めました。いえ、1人で田舎に居る、お袋の具合が悪くてなあ、面倒を見てやらなあかん様になりましたんや。男は私が1人で、妹は結婚して神奈川県の大船におります。私が、独りもんやさかい。これが一番良いと思うんや」
「へえー、それは大変どすなあ。お母はんは何歳どすか」
「82歳ですわ。なに、高血圧で倒れましてなあ。今は、何とか自分の身の回りのことをしているようですが。早う帰ってきて呉れと、五月蠅いのですわ。それでなあ、木村はん。あんたに、理事長を引き受けて貰いたいんやが。どないやろ」
「そりゃ、そういう事情やったら、仕方がおへんなあ。森田はんには、今までに随分世話になったし、断る訳にはいきまへんがな。分かりました。お引き受け致しますわ」
その時、またマスターが森田に声を掛ける。
「森田はん、ここに沢田はんもいてはりますので、木村はんに沢田はんを紹介しといたら、どないだす」
「ああ、せやなあ。その通りや。木村はん、そこのお人が、先頃話していた沢田はんや。沢田はん、このお人が協会の副理事長をしてもらっている、今度は理事長として、僕の後を受け継いで貰う、木村達夫はん、言うお方ですわ。よろしゅう頼んます」
「沢田はんどすか。はじめまして。森田はんから、お名前は聞いとります。これからも、宜しゅう頼んます」
沢田は、立ち上がって丁寧に礼をして、名刺を差し出し、木村の名刺も受け取る。
「こちらこそ、初めまして。何かのご縁と思いますので、私の方こそ宜しくお願いいたします」
「さすがやなあ。礼儀正しいお人や。東邦電機の広報課長さんいうたら、社長の秘書も兼ねておられるのやろ。以前に、そういう話を聞きましたよ」
「秘書というのは、おこがましいのですが、北川社長と接する機会が、他の者よりも多いというだけのことですよ」
森田が、吸っていたタバコを灰皿に置いて、言い出す。
「沢田はん、折角やさかいに、もうチョットこっちに近づいて座っておくれやす」
こうして、昨日と同じように店の奥のカウンターの中に、マスターとマドンナが、そしてカウンター・テーブルに3人が陣取ることとなったのである。木村達夫という男は、森田より背が高くて、都会的な洗練された雰囲気を持っている。森田よりも、寧ろ理事長らしい風貌をした男だ。焼き鳥には殆ど手を付けずに、コップのビールだけを飲んでいる。タバコも吸わないらしい。
すると、おもむろに木村が立ち上がり森田に言う。
「森田はん、私は、ちょっとこれからヤボ用がありますので、今日はこれで失礼します。沢田はんも、ゆっくり、しと呉れやっしゃ。森田はん、先程の件はなあ、では正式に理事会を開いてから決めるということにしましようや。いずれにしても、後は引き受けましたので、ご安心下さい。それでは、皆さんお先に、すんまへん。歩いて、次に行きますわ。さいなら」
引き際のタイミングも、仕草も洗練されている。そして、残ったのは、また昨夜と同じメンバーとなる。沢田は、ほっとして、コップにビールを自分で継ぎ足して、一気に喉に流し込む。冷たいビールが血管を収縮させるのが分かる。旨い。それを見ていた森田が、沢田に言う。
「沢田はん、突然のことですが、ちょっと相談したいことがありますので、今から2、30分私に時間を貸して貰えまへんやろか。なに、スグに終わると思いますよ。マドンナさんも一緒ですさかいに。なあ、マドンナ。そういうことで良いのやなあ」
マドンナも森田の問いかけに、頷いている。マドンナとも示し合わせた上での話らしいと、沢田も納得する。時間も、既に夜の11時になりかけていた。沢田は、今日が金曜日であることを思い出し、寧ろよく飲んで、極力遅めに帰りたいと思っていたから、異論のある筈がなかった。今夜は、寮の隣の部屋からの、睦み声が聞こえる日だからだ。
「よっしゃ、決まりや。マスターおおきに。今日のなあ、沢田はんの分は、僕のオゴリにしといて。一緒に払うさかいに。沢田はん、宜しいやろ」
「はい、ありがとうございます。では、ごちそうになります。済みませんですね」
「それでは、話は決まった。マドンナ、今から一緒に行くから、2階に行って着替えをしてきな。なあ、マスターいいやろ」
「ああ、11時で閉店やさかいになあ。宜しいおす。せやけど、マドンナに手荒なことをしたら、あきまへんで。沢田はん、森田はんを、よう見張って呉れなはれや。たのんまっせ」
こうして、支払いを済ませた森田は、「鳥清」から少し入った左側に、路上駐車していた自分のタクシーを運転して、店の外で待っている、沢田とマドンナの処まで近づく。後部座席に2人を座ら、おもむろに北方向に向かって走りだしたのである。車中の3人は、これから、まるで自分達が主役の劇を観るかのように、何も喋らずに、押し黙ったままである。
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