<プロローグ>
『どうなっているのだ、妙だなあ。あの部屋は』
秋元茂は大事にしている、バード・ウォッチング用のミニ双眼鏡を眼球に押しつけたまま、独り言をつぶやいた。彼は、ポートタウン西・37号棟の412号室のドア側を、中埠頭駅のホームから見ている。今日の午後は、晩秋の日射しが、心地よい。
『あっ、今度は左隣の411号室のドアから岡田が出てきたぞ。不思議だなあ。確か、岡田は右隣の412号室のドアから入った筈なのに、ベランダ伝いに隣の部屋に移ったのだろうか。よし、下に降りて、もう少し近づいて、調べてやれ。それにしても、今まで一度も欠勤したことのない、岡田君がどうしたというのだ。三日間も続けて、無断欠勤をするとは』
秋元は、連絡なしに、一昨日から3日続けて会社を休んだ、部下の岡田美子の自宅を密かに訪ねて調べにきていたのだ。電話を掛けても通じないし、こうするより他に方法がなかったからである。無断欠勤のこともあるし、また妙な事件にでも巻き込まれていれば、自分の管理責任が問われると胸騒ぎがして、難波から急いで、大阪南港のポートタウン西・37号棟の彼女のマンションまで出てきたという訳だ。地図で調べて来たので、彼女の住んでいるこの分譲マンションはすぐに見つけられた。この辺りは、殆どが大阪市内に勤めているサラリーマンを対象とした、中級の分譲・集合住宅で、大規模団地となっている。
住宅の周りは車道と歩道が整備され、それに沿って高い樹木も植えられている。また、公園やマンションへのアプローチは、多くの植栽で囲まれている。幸いにも、人が立って双眼鏡を覗いて居ても、違和感はない。秋元は、エレベーターで四階に上がり、解放廊下を歩いて、岡田美子の部屋の前まで着いた。そして、ドアをノックしたり、インターホンを押すが、返事がなく誰も出てこない。しかし、岡田が部屋に居ることは、先程見たから間違いはないと秋元は確信している。誰かが、部屋にいる気配も感じる。今度は、ドアをドンドン叩きながら、声を出して呼ぶ。
「おうい、岡田君。部屋に居るのだろ、分かっているのだぞ。おうい、返事をして呉よ。岡田君、どうしたんだよ、返事をしなさい。明日からは、絶対に出社しなさいよ。絶対だぞ」
随分待ったが、それでも、返事がない。同じ事を、念のために隣の411号室の前でもしてみるが、全く返事がなく、誰も出てこない。秋元は、そのまま暫く待ってみるが、物音一つしない。仕方がないので、彼は、とうとう諦めて引き返す。
帰り道に、中埠頭駅のモノレールのホームに立って、もう一度、彼女の部屋を目で探した秋元は、ハット気付く。このホームから彼女のマンションを見るのが、最も見え易く、しかも、マンションの玄関ドア側はホームから、またベランダ側は住之江駅に向かうモノレールの車内から、丸見えだと偶然にも発見する。駅のホームからマンションのドア側が見えるのはこの37号棟しかなかった。
翌日、何事も無かったかのように、出社した岡田美子は、風邪で発熱して、肺炎になりかけたので病院に行っていたと、平然として理由を言って、秋元に謝罪して、年休届けを事後提出した。しこりが残るが、一件落着だ。秋元もそれ以上には追求しようとはしない。しかし、その後も、何故か、同じようなことが時々、続けて起きるようになる。
それからというもの、岡田への不信感に駆りたてられたのか、大阪南港のWTC高層ビルに、営業に行くと言っては、合間を見て住之江駅から中埠頭駅に出てきて、ホームから双眼鏡で観察する秋元の姿が度々見られた。辺りは、人工の並木林が数多く作られており、鳥たちも多く集まっている。
幸いにも、双眼鏡を握っている秋元のその姿は、物好きな男のバード・ウォッチング姿としか、周囲には写らなかった。今日の夕刻も、秋元は、双眼鏡を目に当て、ドアの方に注視して、じりじりと距離を詰めて、とうとう彼女のマンションのスグ近くまで来てしまったのである。初冬の辺りは、寒々しく、すっかり薄暗くなりはじめている。
『今度こそは、絶対に、調べてやるぞ。なんか、ありそうだ。あれっ、誰だ。誰かが、岡田の部屋に入ったぞ。変だなあ。よし、もうチョット近づいて調べよう』
好奇心に駆られて、再び、岡田美子の部屋のドアまで来た秋元は、新聞受けの口から、中を覗いて、あろうことか、驚くべき事実を発見するのである。