19. 家が売れる
沢田は、マドンナに縛られずに、元の独りの生活リズムを取り戻した。殆ど、もう鳥清には寄らずに、早めに寮に帰ることも出来るようになっている。隣室からの騒ぎにも慣れたのか、もうどうでもいいと気にもならない。金曜日の今夜は、踊り場にある赤電話から、久し振りに戸塚の自分の家に電話する。
「もしもし優子さん、啓介です。久し振りだねえ、元気ですか。こちらは相変わらずですわ。ところで、家の方はどうなったのかなあ」
「あら、今頃何の用事なの。電話だったらさあ、昼間にしてよね。下の子供が起きるじゃない」
3カ月も出会っていないし、電話だけでは、心も通じにくくなっている。つっけんどんな言い方は、前より激しさを増しているようにも聞こえる。
「家の方もね、足元を見られてはいけないからと、私も頑張っているのよ。家の中に、買ってきた観葉植物を置いて豪華感を演出したり、売り急いでいない雰囲気を出すために、わざと堂々とした態度で不動産屋に接したりして、工夫しているのよ。あなたには分からないだろうけれど。絶対に2000万円以下では売らないから」
勝ち気な言い方は相変わらずだ。以前に比べて気持ちに余裕が出てきた沢田は、少し突っ込んでみる。
「出来れば、今月中に処分してさあ、こっちで一緒に生活しようよ。そう思わないかい。生活費も二重に掛かるしさあ。単身赴任は、お互いに色々と精神面でもトラブルが多くて、僕も疲れたよ」
「そうねえ、1980万円まで上げさせているから、後少しなのよ」
「20万円位だったら、金利を計算すれば一緒じゃないか。もう、そこら辺で手を打とうよ。どう思う」
「そうねえ、そうしようかしら。ホントに1980万円でもいいの」
出身がこちら方面の彼女は、本当は早く家を売ってしまい、親元の近くで住みたいと思っているのだ。沢田は、彼女の心理状態までを把握できる程に、情緒が回復していた。
「いいさ、その金額なら上出来だよ。よく頑張ってくれてありがとう。さすが優子さんだねえ、立派なものだよ」
相手を立てて誉めることも忘れない。こう言えば、彼女は納得する筈だ。
「分かったわ。じゃあ明日、不動産屋に返事するわよね。だから、貴方は急いで家の方を探してよ。私の実家に近い方にしてよね。貴方の実家に近い方だったら、私は絶対にイヤよ。だから京都から草津、米原方面との間、ということになるわね。分かって呉れた。これは約束よ。必ず守ってね」
沢田に対して、事細かに命令する口調は相変わらずだ。これを受け入れれば、話が納まることも沢田は知っている。
「了解しました。じゃあその線で、明日から僕の方も動きますよ。京都から東方向だね」
翌日の土曜日から、早速に沢田は家を探し始める。マドンナに付きまとわれることもなくなり、自由時間ができたから出来ることなのだ。優子の指示通りに、草津駅で下車して近辺の不動産屋を回る。自分で全てを決めると、機嫌が悪いから、沢田は候補だけを上げて、後は優子に決めさせようと考えていた。こちら方面の土地に初めて来た沢田は、東近江のどの町も、歴史の町と知る。安土桃山、江戸時代の生活の痕跡が、今でも至る所に残っている。草津から安土までの間を、興味深くかつ注意深く、物件候補を探し、現地視察も済ませて、何とか土、日の2日間で、手頃な5物件の情報を入手したのであった。日曜日の夜に、不動産屋からコピーして貰った物件情報を、自分の意見も添えた手紙と共に、早速に優子に郵送する。
4、5日経過してから、沢田は再び横浜に電話する。会社の守衛の横に置いてある、赤電話からの電話だ。夜に電話するとうるさいから、今日は昼休み時間に掛ける。外に出るには、上司印のある外出票がないと出られないからだ。守衛室の隣の銀杏の樹が、青く茂って、木陰を作って呉れている。
「もしもし、私ですが。優子、もしもし。例の件は、どうなったっけ」
「あら、あなた久し振りねえ」
今日は機嫌がいい。続いて、嬉しそうな輝いた声が聞こえてくる。
「やっと売れたのよ。ちょっとゴネて、そんなんじゃもう売りませんと、大きい声を出して頑張ってみたら、20万円プラスしてくれたわ。予定の2000万円丁度で手を打ったのよ。どう、スゴイでしょ」
「そりゃあ、スゴイねえ。さすがだね。よかった、よかった、感謝するよ。それから、僕が送った物件情報を見て呉れた 」
ありったけの賛辞を送って、彼女を褒め称える。当然のことだ。
「はい、見ました。よく調べたわねえ。私は、一番大きな家で土地も広い、この2400万円のが良いと思うわ。通勤には、少し不便かも知れないけれど、私の実家には近い方だから、もうここに決めるわね」
「ああ、安土の物件だね。織田信長の居城の遺跡が山の上にある町だよ。その物件は、新築で家も広いし、絶対いいよ。でも、少し通勤時間が掛かるけれど、僕が辛抱すればいいことだからさあ。じゃあ、これにする。不動産屋に電話していいかなあ」
「ちょっと待ってよ。私の姉の旦那さんが、不動産に詳しいから一度見て貰ってくれない。電話して置くから、あなたの方に、お兄さんから電話して貰うわね」
「だけど、電話がないよ」
「それなら、今から言う電話番号に、あなたの方から電話してあげてよ。今週の土曜日に一緒に見に行って貰うように、話しておくからね」
彼女は5人兄弟姉妹の一番下だった。長姉の夫の山下達夫のことだ。
その週の土曜日に、安土駅で待ち合わせていた沢田は、駅前で義兄の山下と合流する。沢田がまだ銀座に居て、優子との結婚が決まった頃のことだ。この義兄はわざわざ東京まで出てきて、突然に沢田に面会を申し込んで、義妹の結婚相手となる沢田の品定めに来たという強者である。沢田の勤めていた会社と、沢田の人となりを見て、彼は安心したという報告から、優子との結婚は承諾されたのである。だから、小柄な山下達夫の顔を、沢田は忘れようにも忘れられない。
「おお、啓介か。達者でいるかい。それは良かった、良かった。早速に、見に行こうぜ。俺の車に乗れよ。車で一緒に行こう」
小柄だが、エネルギッシュな男だ。
「はい、ありがとう御座います。駅前通りを真っ直ぐ琵琶湖側に走って、大通りに出て左折すると、団地の入り口がありますから」
こうして2人は、優子の決めた物件の現地に到着する。不動産屋も鍵を持って、現場に来ている。山下達夫は、不動産屋と同行して、地面の境目、方位、土地の登記の履歴、家屋の間取り、通し柱の本数、建築津面の確認、断熱材の有無、床下のチェック、天井裏に登っての確認など、沢田では気の付かない細かい専門的な見地から、書類と現物との調査を実施してくれた。優子が推薦する通りに、なかなか大した知識を持っている男だ。沢田は、現実に立脚した生活感のある男の姿を、初めてつぶさに見て、今まで自分は何をしていたのだろうか、自分もかくあるべしと痛感するのである。
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