(2) 近代映画
この「三億円事件」が起こる4日前の昭和43年12月6日のことだ。日本信託銀行国分寺支店・支店長の自宅に、[300万円を用意しないと支店と支店長の自宅をダイナマイトで爆破するぞ] との主旨で、脅迫状が送りつけられるという伏線があった。この脅迫文を出した者と、「三億円事件」の犯人は同一人物だと、平塚八平衛も断定している。
実は、この雑誌「近代映画」の広告掲載見本誌も、当宣伝部の書庫には置いてあった。私が、書庫の整理担当だったから、この本のこともよく知っている。映画と電機の専門雑誌がどんな関連があるのかと、諸君は思うだろうが、東洋電機は当時、映写機器、映画関連放送機器も商品として持っており、これらを「近代映画」にも広告出稿をしていたのだ。武田さんは、映画が大好きで、昼食のとき本で見た映画のことをよく話してくれた。この本も、電波科学と同じように、自分の鞄に入れて、持ち帰っていたことも、私は知っていた。しかし、あのとき来た刑事は、この「近代映画」のことは何も言わずに、何故か「電波科学」にだけ固執して捜しまわっていた。
驚く無かれ、実は、この脅迫状は「近代映画」昭和43年7月号の活字を、切り張りして作られていたのである。「近代映画」と「電波科学」、この2つの特殊な雑誌の同じ月の号を、しかも同時に、人知れずに持ち帰れるという、普通では考えられない極めて希なチャンスが、彼にはあった。刑事の調査に依ると、一般書店では、この二つの雑誌の読者は全く一致しないとの結果であった。ここにも、武田さんが、犯人と重なるルートが見えてくる。
では、こんな大事なことを当課に調べに来た刑事が、何故見逃したのか。この時期は、平塚八兵衛が担当ではなく、他の者が指揮をしていたからである。彼が述懐しているが、昭和44年4月着任した頃、初動捜査にミスがあったこともあり、捜査方針が二転三転して、いわゆる「お祭り捜査」となり、捜査本部は混乱状態にあったのだ。そこで、「近代映画」7月号も無くなっていることに刑事は全く気付かず、武田さんは、ラッキーにも網から漏れたのではないか、と推察する。
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