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Welcom to Essay by Dan !
2005年を素晴らしく、かつ
有意義にしたいと祈念いたします。
Hubble撮影のフォトン・ベルト実写画像です。
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●2005年12月3日(土曜日)
続「土方、馬方、道具方」
道具方には、実は女性のプロもいる。そして、全身黒ずくめの服装をして、男と全く同じ様に働く。女だからといって容赦はされない。大変に過酷な仕事であるのに、嫌な顔ひとつせずに、平台も軽々と担ぎ上げて、寡黙で平気な顔で力仕事をこなす。加えて、舞台の裏方の知識は大変に豊富で、頭の回転も早い。彼女達も、女優や舞台俳優を目指して、この世界に入ったものの、何らかの事情で挫折した人達なのであろうか。一応にスタイルも良く美形だが、食うためには仕方がない。
しかも、仕事の度に、地方、地方で違うプロの女性が仲間に加わってくる。頭(かしら)以下、大道具方が7〜8名の内、大体2人ぐらいは女性である。先日の宇治・公演の時も然りであった。中背でスタイルが良く、年は30歳で独身の、小顔で今風のなかなかの美人だ。仕事の方も、指図しなくても自ら動き、無駄口が無く、頼り甲斐があり、まさしくプロ。ギリギリの人数で切り盛りしていたから、もし彼女がいなかったら、廻り切れていなかったかも知れない。それ程、この仕事に打ち込んでいる女性であった。このように、この世界に、道具方の女性が加わるというのは、実は、江戸時代にもあったことなのである。
それは、殆どが草であった。草は、所謂女間者である。美形で、頭が良く、女を武器にして狙った相手から情報を取る「くのいち」そのものなのだ。屈強な肉体と、使命感を持っているから、この仕事にはうってつけである。加えて三食賄い付きで、寝床もある。しかも、身分を隠すには、舞台裏ほど都合の良い所はない。そして、あろうことか、男もここに女を買いに来るのだ。だから狙った男に観劇に来させ、近づいてきたのを逆に喰うのだ。これ程、草にとって好都合な場所はなかった。普段は、道具方として身を潜め、そしてチャンスを待っているのである。女郎蜘蛛のように。
話は変わるが、奇しくも今日の朝日新聞に、女間者のことが記事になっていた。それは、村山たか女(別名・村山可寿江)である。京都は祇園で芸を仕込まれ女に磨きをかけた、当代随一の才色兼備であったという。最初は、彦根の藩主であった嫡男・井伊直亮(直弼の兄)と、次いで14男で当時は不遇を囲っていた後の大老・井伊直弼と、最後は影の大老と言われた長野主膳(元は直亮の部下だったが最後は直弼の右腕)と関係を持つに至る。多情で恋多き女性であったが、美貌と才知で次々と男に近づきものにする。
そして、長野主膳と通じてからは女間者としての本領を発揮して、勤王派の公家や尊王攘夷派の浪士等の情報を集め、主膳に報じたと言われている。そのいずれもが、歌舞伎座等の舞台裏がその場となっていると推測されるのだ。愛欲スキャンダルの裏には、実はこのような情報戦争があったのである。そして、江戸幕府は自ら滅び、直弼も、主膳も打ち首。たか女は、寒風すさぶ鴨川三条河原で、三日三晩の間、薄衣一枚で生き晒しになったという。遂に、大政が奉還され、そして現代にと歴史の血脈が繋がっていくのである。その後、たか女は、尼僧に救われ金福寺の寺守として晩年を過ごす。絵は、大久保氏蔵。滋賀県は多賀町の高源寺に、たか女の晩年の肖像画があるが、大変な美人であったことが、伺われるという。
了◆
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