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 田楽男の小説
小説の背景と概略紹介
                     

  

  7.「いのちの電話」前編  Back Number 保存庫

 

 

 

 

               

 

8.稟議書

 

 

 

 

 

 

今は、大企業に、いや大変に経営内容の良い会社へと、大変身しているが、沢田啓介がいた当時の東邦電機は、いわばまだ京都のベンチャー企業同然である。そして、ロイド社に比べると、価値観の大きな相違が、至るところにある。これに慣れるのに、沢田は随分と時間を掛けなければならなかった。思考方法や行動規範が、細かく決められていたからだ。

 

 

 

社内を歩くのにも、その規範を守らなければならない。構内では、人間は左側通行と決められている。人間の心臓が左側にあるからだ、という理屈らしい。上司に出会えば、立ち止まり姿勢を70度傾けて、礼をしなければならない。電話を掛けた後も、自分が、どこに、何の用件で、何秒間、電話を掛けたかを電話記録ノートに記録しなければならない。コピーも、自分が、何枚コピーしたかを記録しなければならない。枚挙にいとまがない程、社内での従業員の行動規範が、事細かく決められている。そして、週末にはこれらを巡って反省会を持つのだ。誰々のコピーには、無駄が多すぎる。憲さんの電話はもう少し手短にしよう等と言って、他人から指摘を受けて、お互いに自分の行動を反省するのだ。想像を絶する世界が、ここにはある。

 

 

 

大半が、社長の北川宗一郎の価値観から派生して、決められた規範のようだ。その根本には、強い人間不信と猜疑心が、いわば人間の性悪説が隠されており、北川は、人間よりも機械を愛するという、誠に理解しにくい人物である。ある時、日経新聞の新聞記者からの社長取材を、祇園の一流料亭にセッティングして、ここで記者からの取材を受ける段取りを組んだ沢田は、役目上同席して、共に会食する機会があった。その席で、直接に、北川の思考に接することができた。新聞記者を前にして、北川は、何故か沢田に対して得意げに質問する。

 

 

 

「沢田君、人間と動物との間には、大きな違いがあると思うが、君は何だと思うかね」

沢田は唐突に言われたので、東北産の初物の、まつたけのお吸い物を思わずグッと飲み込んだ。そして、箸を置いて、椀を元の場所に戻してから、慌てて答える。

「それは、手が自由に使えるということや、脳が発達していること、言葉が使えるということ等、だと思いますが・・・・・。違いますか」

「私も、そうだと思いますねえ」

新聞記者も、椀をもったまま喋って、沢田の答えに相槌を打つ。

 

 

 

「君たちは間違っているよ。人間だけがだね、教育される動物だ、ということさ」

「教育される、と言われましても、人間以外の動物も、動物なりに親から教育されているのではないでしようか」

理屈っぽい沢田は、ここでも応酬する。

「それは、教育でなく本能だよ。君が今言った、人間が言葉を喋れることも、親から教育されているからさ。手が使えるのも、使い方を教育されているからだ。教育されることで、脳も発達する、という訳だよ。どう分かったかね、沢田君。だから、当社では、教育に大変重きを置いている。だから、上司の評価は、部下の教育の程度で、私は判定することにしているのだよ」

北川は、記者のことも沢田のことも、その存在を忘れたかのように、ゆっくりとした重々しい艶のある声で、喋りながら食べている。余談だが、北川は、刺身は絶対に食べない人だ。だから、彼の膳だけは、刺身の替わりにと、ビーフステーキが特別にあつらえてある。彼は、生肉を喰うのはエスキモーと日本人だけだ、と言って、日本人を軽蔑して刺身を毛嫌いしていたからだ。

 

 

 

「なる程、よく分かります。そういう意味だったのですね」

新聞記者も感心して、メモを取っている。

「そうなんだよ。普通の会社は、売上高とか利益貢献度で人を評価するが、私は、部下への教育程度で判断する。業績が上がるのも、新製品が開発されるのも、全て部下への教育内容如何に関わっているからだ」

「なぜかならば、人間は嘘をつく動物だからさ。機械は嘘をつかないが、人間は都合が悪くなると、誰でも必ず嘘をつく。君もそうだろうが。私は、だから、私の命令に忠実に従う機械が一番に好きなのだ。機械は、電圧を上げれば、モーターの回転数が上がって、スピードアップして製品を作ってくれる。昔と違って今では、製造ラインは、だから全部機械化しているのだよ」

それから、雑談に入ったが、新聞記者という客の居る前でも、北川は構うことなく社員の悪口を言うのにはビックリした。記者が、お世辞だろうか、その時、こんなことを言ってきた。

 

 

 

「ところで、北川社長、お宅の総務部長の田村部長さんは、仲々に奥の深い人ですね。それと、山本憲一さんは、挨拶が丁寧でシッカリされていますねえ。沢田さんの前の担当者だったので、私も何度かお目に掛かっていますから、良く知っています。さすが、北川社長の言われる、先程の教育の成果ですかね」

すると、北川は構わず、ズケズケとこうだ。

「何を、言うのだ君は。総務の田村孝一部長はだね、奥が深いかどうか知らないが、底が抜けているんだよ。何時もポカをするので、私は、彼を叱っているのだ。憲さんはだね、沢田君も知っていて貰いたいのだが、2つの仕事が同時に出来ない人なんだよ。沢田君、人を見抜いた上で、上手に使って呉れよ」

 

 

 

このことがあってから、沢田は、北川社長を恐ろしい人だと、心底思うようになる。加えて、沢田を悩ませた、価値観の違いが、もう1つある。それは、稟議書にまつわることだ。普通の会社なら、稟議書に使う言葉に、一字位の間違いがあっても、提案事項と投下金額との整合性、そして効果が期待できれば、稟議書は通る。一般には、稟議にはタイミングが大事で、スピードが要求されるからだ。しかし、ここでは、違った。文字の一字のミス、句読点の打ち方のミス、誤字、脱字が1つでもあれば、即座に却下される。

 

 

 

ある時、沢田が提出した、新聞記者からの専務への取材の申し込みを受ける、という稟議書を見てこう注意される。

「日経新聞という新聞はありません。日経産業新聞、日経流通新聞と日本経済新聞ならあるがね。これは、どちらの新聞のことを言っているのですかね。はい、もう一度書き直して提出してください。この稟議書は却下です」

こう言って、稟議受付である、総務部長の田村孝一から、突き返されたのだ。

「えっ、日本経済新聞のことを略して日経新聞といいますでしょ。それは屁理屈で変ですよ。スグに、承認いただかないと、新聞記者からの取材に間に合わないのですが」

「君、略語は正式名称じゃないよ。間違えたのは、それは、君の問題だよ。間に合うようにしなかつたのは、君に問題があるからだ。文字を間違えたのも、時間の余裕を持って提出しなかったのも、全部が君自身の問題だろうが。どうかね、異論はないだろ。北川社長は完全主義者なんだよ、君。知らないだろうから、教えてあげるが、北川社長は、若い頃ピアニストをだったんだぜ。音が1つでも間違えると音楽にならないだろ。だから、全てに置いて、何事も完璧でないとダメなんだ。こんな稟議書を通すと、今度は、私が責められるのだよ。分かるかね」

「そこを、何とか、私を信用してお願いしたいのですが」

「馬鹿者。出直したまえ。稟議書の書き直しだ。一字訂正も絶対ダメだよ。最初からもう一度日本経済新聞とキチット書き直しして、出直して呉れ給え。何と言おうが、この稟議書は受け付けられないよ。君」

沢田は、開いた口が塞がらない思いがする。ここは、普通の会社ではない、全ての事柄と環境の違いが、彼の脳髄に、大変に大きな刺激となっていったのである。いわば、脳髄の入れ替え作業をしているようなものだ。

 

 

 

加えてもう1つある。これは、京都独自の組織風土だ。稟議書を書き直して、やっと受付の総務部長の承認をもらうと、次は、これを沢田が、自分で持つて廻らなければならないのだ。担当取締役、常務二人、専務、社長と、順番に稟議する人に対して、いちいち最初から沢田が、例えば、取材の申し込みの経緯から、新聞記者の属性、そして社長取材の効果までを順に、説明をして、そして前の稟議者の意見も付け加えて、上席稟議者に承認をお願いするというシステムになっている。しかるに、専務が海外出張していると、その間は稟議書を持って回れないから、承認が貰えない。どうしても間に合わないときは、自分も海外出張して、承認を取り付けるということも、過去にはしたそうだ。

 

 

 

何人かの者は、そこまでして承認を貰ったようだが、そういう者は、当然のことながら、社内の嘲笑の的となる。先程の、田村孝一総務部長は、実は、ロスに海外出張していた北川社長に、カタログに使う写真を決めて貰うだけの為に、自分もロスにまで飛んだという。北川社長が言っていた、底抜けとは、このことを言うらしいと、後になって知る。京都にしかない、独特の稟議システムである。これの為に、後日、沢田も結局会社を辞めざるを得なくなるという、大事件に巻き込まれる羽目にもなるのであるが。それほど、この会社での風土は変わっており、これに慣れるのに、沢田はかなりの努力と思考の転換を図らざるを得ない状況にあったのである。

 

 

 

 

 

 

 

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