7.隣からの物音
かなり酩酊した沢田が寮に戻り、ドアの前に立つ。隣の部屋の、ドアの下からも弱い光が漏れていたから、竹内良子は部屋に居るようだと、沢田は気付く。
『また覗かれぞ。見られるかもしれないから、今日は要注意だな』沢田は、少し緊張する。そっと、鍵を開けて、狭い狭い自分の部屋に入る。部屋のスイッチを、そっと入れて、入ってすぐ左手にある、半畳の台所の水道栓を軽くひねり、音を立てぬように出した水道水をコツプに注ぐ。コヅプの水を口に運び、音を立てぬようにグチュグチュと、何回もうがいをする。口の中の、今日の酒と食い物クズを洗い流し、さっぱりとする。
靴を脱いで、畳敷きの5畳の床に入り、見られないようにと、蛍光灯の電気を豆球に切り替えて、薄暗いままで着替える。矢張り、隣からは覗かれているような気配を、沢田は感じる。しかも、今夜は1人でなく、2人いるようにさえ感じられる。沢田の布団は、いつも敷きっ放しなので、彼は、下着のまま急いで布団の中に、潜り込む。そして、豆球も消して真っ暗にする。しかし、部屋の突き当たりにあるサッシュ窓が大きくて、外の街の明かりが部屋にまで入ってくる。面倒なので、まだカーテンを付けていないからだ。結構明るく感じられる光だ。近所にネオンがあるのか、時々その光は、淡い青になったり、緑になったりと変化している。沢田が、部屋に入ってくる光に神経を集中していると、先程の気配は、もうしなくなっていた。
『さあ、これで安心して寝られるぞ。それにしても、名取祐子に似た、あのマドンナは魅力のある女性だなあ。女工から、同志社の英文科を卒業して、百貨店勤めでお客と知り合いになり、クラブを経営してたとはなあ。なかなか頭の良い、才覚のある女性だ。名前は、なんだっけ。確か、吉田英子とか言っていたなあ・・・・・。それにしても、激しい性格というか、大変な女性だ。包丁を持ち出しての喧嘩とはなあ、怖い、怖い・・・。係わり合いになると大変だぜ』
思いつつ、沢田はウトウトして、小1時間も寝ただろうか。すると、ベニヤの壁から聞こえてくる、聞き慣れない女の声で目が覚める。
その時、それは隣の部屋で始まっていたのだ。今までには無かったことだが、まさしく男女の夜の行為が始まっているではないか。呻くような、押し殺した様な、そのときの、女の声が、沢田を目覚めさせた。窓から入る光に当って、うっすらと見える目覚まし時計は、午前1時前を指している。ベニア板2枚の壁からは、聞きたくないと思っても、アケスケに聞こえてくる。あの、竹内良子が男を引き入れているのだろう。隣の部屋からの声は、まだ延々と続いている。若いから幾らでも、できるのか。そして、とうとうクライマックスを迎えた女の声が、何回も届いてくる。すっかり、沢田は目覚めてしまった。妻の顔とマドンナの顔が交差して、沢田の脳裏に映し出される。先程の、マドンナの乳房の感触も、背中に蘇ってくる。沢田が、一度5月に横浜に戻ってから、かれこれ2カ月が経過していた。
沢田は、布団から乱暴に起きて、電気を点けて台所に行き、水道水をジャーッと大きく音をさせて出し、コップに水を注ぎ、一気に2杯も飲む。そして、部屋の鍵を持って外に出て、共同トイレに行って放尿する。戻るドアは、気の毒だが、バタンと締めてやる。いいかげんにしろ、とさえ、沢田は感情的になっていた。
布団に入り直し、電気を消して、隣に神経を集中すると、カサコソとかすかな音がしているが、声はもう、しなくなっていた。ヤレヤレと思い、ウトウトしていると、何とその声は、再び始まったのである。もう寝ているどころではない。今度は、当て付けか、遠慮もなく、感情任せの男女のその時の声が、丸聞こえに、此方に響いて届いてくる。振動まで伝わってくる。だから、とうとう、朝方の四時まで、沢田は寝ることができず。フラフラの状態になりながら、起床せざるを得ない。
『この部屋は、単身赴任者には、まるで悪魔の部屋だぜ』と舌打ちして、沢田は腹立たしく思う外はなかった。
その後、沢田が観察してみると、それは、殆ど定期的に月、水、金と、1日おきに始まっている。そういえば、昨夜は金曜日だ。時間も、夜の12時過ぎからと決まっている。男が、水商売か何か、夜の仕事をしているらしい。恐らく、2人の女を掛け持ちしているからか、1日おきになっているらしいと、沢田は想像する。男の顔を見たことはないが、沢田が出勤している間の昼前頃に、彼女の部屋から出るらしい。大体において、このようなことを推測して、沢田には分かった。
|