(4)ブタペストのトルコ風呂
ドイツのフランクフルト空港から、ブタペストに入る。ブタペスト行きの便には、この空港の下にある長い、長い地下道を渡って、搭乗する。そして、1995年5月時間に着地。
ブタペストは、いち早く、西欧の仲間入りを果たしたハンガリー共和国の首都だ。色んな意味で、落差が大きい。ハンガリーの老人や年配者の顔付きは、髪もダーク系で、目も茶色。どこかアジアの臭いがする。我々には、どこかで見た懐かしい顔付きだ。
彼らの先祖は、遊牧のアジア人だという。この先祖達が、東からウラル山脈を越えてやってきて、作った国がハンガリーだと、彼らは胸を張る。
だから日本人には近親感を持っており、また先進国の仲間入りをしているという理由で、尊敬もしていると言う。しかし、若い人たちは、欧州人らしく快活で、青い目の金髪の若者が多い。若い人達は、不格好な日本人を、殆ど相手にもしない。
ブタペスト市の真ん中を、ドナウ川が東西にゆったりと流れている。少し濁った緑色の広い川だ。この川の北側がブタ地区、南側がペスト地区という。南北で、建物の感じがまるで違う。いわゆる歴史的建造物が数多く建ち並び、石畳の道路がブタ地区。一方、近代的な四角い建物で、アスファルトの道路がペスト地区。
また、ハンガリー人の先祖は建築技術に長け、ヨーロッパの建築技術はハンガリーから西に広まったと、彼らは自慢する。イタリアのゴチック建築もパリのノートル・ダームの寺院建築も、このハンガリーから始まったと知る。ブタ地区の建築物、とりわけ教会建築は、誠に精緻で素晴らしい造形の建築技術を見せつけて呉れる。必見の技だ。
しかし、一歩街から西へ移動し田舎に行くと、藁葺きの小さな家が点在する。車も古くボロボロで、ドアには錆穴が幾つも開いている。着ているもの、食べているものが、みな粗末。また、山がなく、なだらかな丘陵がどこまでも続く。丘陵には農作物が作られている。
丘陵の所々には、ジプシー達の粗末な小屋が、そこかしこに立っている。ここは、農業国なのだ。最近まではロシアに、その前はポーランドに、トルコにと、この国は他国に占領され搾取された歴史を持つ。だから、貧乏なのだ。
しかし、東西の冷戦対立は、このハンガリーから崩壊を始めたという。ブタペストの市民広場に立っていたレーニン像がハンガリー市民の手によって引きずり降ろされたのを合図に、西欧全域にいわゆる東側体制は崩壊を始めたのだと、彼らは誇り高く説明する。
気骨あるハンガリー人は、チンギス・ハーンの子孫ではないかと思うほど、人間の誇りと、自信に満ち溢れている。ここから、西洋に巣くっていたレーニン主義の東側体制が崩壊を始めたというのは、誠に宜なるかなである。
他方、最近の情報では、国土の大半の地下に、安価で大変良質の粘土層があり、レンガやタイルの生産に適しており、また地価が極安のこともあって、最近注目され始めている。
ホテルの女性からトルコ風呂があると聞き、行く方法も教えて貰う。市電を30分も乗ると、対岸のブタ地区にある、問題の円形ドーム状をした古いトルコ風呂に着く。運賃は、確か30フォリント(15円)。オスマントルコにこの国が占領されていた当時、風呂好きのトルコ人が作った、本格的なトルコ風呂だという。そして、ご当地は温泉が至る処から出る。日本のトルコ風呂が異なのだ。
ここは、大理石で出来た、温泉の、古代の大衆浴場なのだ。1階には、茶褐色の模様入り大理石で造られた、巨大な円形風呂が左右に配置。それぞれの横には、小さい円形風呂が1つずつ見える。天井は高くガラスのドームになっている。400フォリントだったかを払うと、まず2階に行けと言う。ロッカールームで着替えて、真っ裸に。石の階段を降りて、湯気で辺りが見えないほど温泉水で満ちた、そのトルコ風呂に入る。
結構、深い風呂だ。女用、男用で左右に分かれている。小さいのは、水風呂だ。地元の年配が多く入っている。年寄り達とも、フロム・ジパングと言って、仲間になってワイワイ騒ぎ、気分が良く、2時間近くも風呂を楽しむ。
さて、帰りだ。ドナウ川の畔で市電を待つが、なかなか来ない。ドナウ川から、冷たい風も吹き上げてくる。ワイシャツと下着だけだったので、とうとう震えがきた。車で来た連中が、私を指差して笑っている。ブタのトルコ風呂に入るのに、市電で行ったという、お恥ずかしい失敗体験である。
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